アマラー先生:アライドコーポレーションの先代社長でもある氏家勲さんと結婚し、2年間タイで暮らしたことですね。その時の主人はまだアライドコーポレーションではなくほかの商社の駐在員としてタイで仕事をしていました。主人は食べることが大好きで、タイ料理だけでなく、いろいろなお店に私を連れて行ってくれ、私の食のベースを作ってくれました。初めて食べたトート・マン・プラー(タイ風さつま揚げ)は、本当に美味しかった。主人はタイ語が堪能だったので、私のタイ語の先生でもありました。病気で2006年に亡くなりましたが、「タイと日本を食でつなぐ」という人生のミッションを、私に置いていってくれました。彼がいなければ、今の私はありません。
当時はまだベトナム戦争の最中でした。覚悟して行きましたが案外治安は良く、幸い大きな危険はありませんでした。若かったせいか、大家さんにかわいがっていただき、色々教えていただきました。いまでは高速やモノレールが通っているバンコクの中心地・シーロムは、まだ高層ビルがなくて大きな空が広がっていました。 帰国する頃になってルンピニー公園の前に高層のデュシタニ・ホテルが建ちましたが、中華系の老齢の女性は髪を三編みにして後ろで束ね、頭髪を一部だけ残して剃っている男の子もまだいっぱいいました。
バンコク在住の日本人は確か3~4千人くらいしかいなくて、お正月には日本大使館から招待状が来て、集まって祝ったことを覚えています。ただ、日本人は日本人でかたまりやすので、私はタイに来たからには、タイの人とお付き合いしたいと思っていました。だからタイ語を覚えようと必死でした。
例えば美容院に行く場合、必要な言葉を主人に教えてもらい、カタカナで紙に書いて覚えて、「セット ポム(訳:セットをしてください)」なんて言って伝えていました。
またお手伝いさんが二人いらして、食材などを買ってきてもらっていました。「にんにくは?」「ガティアム」、「ネギは?」「トンホーム」といったように、お手伝いさんからも単語を教えてもらいました。それをタイ語と日本語で紙に書き、キッチンの壁に貼って、お手伝いさんが買い物に行く際に紙を指差しながら「これを3つ」なんて言って伝えていました。
そうやって1つずつ覚えていくうちに、タイ語やタイでの暮らしにも慣れてきて、お手伝いさんの買い物に付き添って市場にも行くようになりました。結果的に半年で買い物には困らない程度に、タイ語が分かるようになりました。話すことは難しかったのですが、聞いて理解することが少しできるようになると、大家さんの奥さんとそのお友達が、日本人が珍しいのか、食事に連れて行ってくれたり、タイについていろいろ教えてくださいました。そこで可愛がっていただいたことも、タイ料理を好きになったことに大きく影響していますね。